花鳥風月

随分鳴らなかった携帯電話が鳴ったのは昼過ぎの事。
発信元に気に入らない名前が出ていたが、見ぬ振りをして兵部はベランダに移動した皆本に視線を送る。

「…あぁ、元気だよ……大丈夫…うん、うん…そっか…」

爽やかに吹く風に乗って皆本の声が部屋に入ってくる。
話している相手が彼の旧友である男で無ければ、もっと心穏やかに無視できていたのに聞き耳を立ててしまう。
しかし聞こえる声は皆本の声だけ。薄々話の内容が見えてきた頃、会話は終わった。

「バベルに戻るのか?」
「聞いてたのか?悪趣味な奴だな」

部屋に入るなり兵部に電話の内容について聞かれ、くすっと笑い眉を顰める。

「戻らないよ。少なくとも――」

言いかけた皆本は口を噤んだ。
兵部の足が治るまで、もしくは最期を見届けるまで。
どちらにせよその言い分は兵部に左右される事である限り、兵部が皆本の自由を奪っていると思いかねない。

「――少なくとも、僕が満足するまでは戻らない」

だから自分の気持ちを優先している事だけを理由として伝えた。

「キミが満足するまでって…いつの話だよ」
「さぁ、いつだろうな」

呆れた声で返されると控えめに笑った皆本が彼の隣に腰を下ろした。

「やっと自由になれたんだ。僕だって少しくらい好きにさせてもらっても良いだろ?」

ずっとずっと絡み付いていた未来の予知。
寄せられる期待に応えるべく奔走していたが、懸念していた未来が過去になってしまえば、いとも簡単に運命の鎖から解放された。

過ぎ去った未来に気を緩めたのは皆本だけでは無かった。
過去から運命の鎖に縛られ続けてきた兵部も同じ。

パンドラを女王に譲り渡した後、油断した彼は、戦渦の最中、疲れた身体を休めるには早過ぎたその場所で、暴走した普通人に足を撃たれた。
すぐに皆本が見つけてくれなければ処置が間に合わず絶命していたかもしれないが、それでも良かった。
もう歯車である必要性が無くなったと確信した彼は、自棄になっていたのかもしれない。
『どうせすぐに死神が迎えに来るんだ。放っておいてくれても良い』と告げた兵部に皆本は怒鳴った。

『もう少しだけ僕に時間をくれ!』

その言葉に驚き、戸惑いの色を浮かべた後、参ったような笑顔になった。
もし皆本の放った言葉がただ無責任に『死ぬな』だけであれば拒否していただろう。
しかしパンドラという組織を離脱した自分を欲しがる奇特さに笑い、頷いた。

思い出し笑いをしていれば皆本が冷たい視線をくれてくる。

「何思い出してたんだよ」
「教えてやらないよ」

意地悪な返答をした兵部がソファから立ち上がる。

「さぁ、皆本クン。キミを満足させに行こうか」
「え?」

皆本の方を振り返った兵部が右手を差し出してきて、思わずその手を取ってしまった。
瞬間。身体に何ともいえない重力が掛かり、反射的に目を瞑った皆本が次に目を開けた時、そこは海だった。

「東京から少し離れただけだが、ここなら大丈夫だろ?」

見渡せば崖だらけ。人の影なんて見えやしない場所で、確かに兵部の様相を気にしなくても良い。
潮風を十分吸い込み、煌く波間を見ていたら兵部が腰に手を回してきた。

「次、行くよ?」

次に着いた場所は山間部。有名な大きな川が流れていて、ここもまた秘境なのか人はいない。
鬱蒼と茂る森に近づけば木々の放つ緑の匂いに心が癒される。

「さぁ次だ」

言った兵部が思いつく限り人気の少ない場所に瞬間移動を繰り返す。だが皆本の表情は喜ぶどころか段々と曇っていく。
何度目かの瞬間移動をしようとした瞬間、「待って!」と皆本が叫んだ。

「もう……帰ろう、兵部」
「どうして?キミが行きたがっていたんじゃないか」

疑問を投げてくる彼に皆本は首を横に振った。

「あまり能力を使わないでくれ」

まだ本調子でない彼に負担を強いたくない。その思いが皆本の顔を曇らせていた。
なのに兵部は笑みを浮かべる。

「大丈夫だよ。今日は調子が良い」
「大丈夫じゃないだろっ!未だお前の傷は癒えてないんだ!そんな奴が無茶をしないでくれっ!!」

生体コントロールを使えばすぐに治せるのに、彼がそうしない理由はただ一つ。
能力を使う程の余裕がないからだ。
そんな結論に至った皆本はなるべく兵部に能力を使わせたくなかった。

「…わかった」

袖を掴む彼の、泣き出しそうになっている顔を見れば承諾するしか無く、渋々兵部は皆本を連れて部屋に戻った。
慣れた室内に足を付けると後ろから皆本に強く抱き締められる。

「ガキか?キミは」

呆れた声で尋ねても返答をしてこない彼は、震えていた。
しがみついている腕を払おうと触れた先から震えの原因が未来への怯えだと知り、兵部は苦く笑う。

「皆本、いつか人は死ぬんだぜ?」
「知ってるよ」

落ち着いた声で窘めた兵部に返ってきた彼の声は小さく、知識として理解していても感情が追いつかないのだろう。
未だ感情の制御の出来ない彼に幼さを感じ、兵部は出会った頃を思い出す。
からかい甲斐のある彼が成長していく様をずっと見てきた。
頼りのない、不甲斐ない、考えの甘い男だと思っていたのが、変わっていく様は敵ながらに喜びを感じた。女王を誕生させるに相応しい男になった、と。

なのにそれが誰の為でも無く彼自身の為に成長して欲しいと願いだした頃、尚更に変わっていく彼に惹かれた。
距離を保ち見守っていた筈がもっと近くで皆本を知り、自分の存在を刻み込みたいと思った事に後悔を覚える。

自分が存在していた事を覚えていて欲しい。たった一人で良い。本当の自分を受け止めてくれる、そんな人物に覚えていて欲しいという欲が彼の未来を奪ったのだ。
兵部と関わらなければ既に誰かと結ばれていて良い年頃なのに、浮いた話も出ない責任は自分にある。
彼の幸せを願うのなら皆本との関係を断ち切るべきだった。

そうわかっていても実行できずに今に至る。

「なぁ皆本?明日は星を見ようじゃないか。それなら遠くに行かなくても良いだろ?」

抱き締めてきている腕を払い、振り返った兵部が優しく微笑みそう提案する。
その提案に、悲痛な表情をしていた皆本が静かに頷いた。

もう簡単に彼の前から消えられる関係では無くなってしまっている。そう自ら仕向けておいて居なくなるだなんて、どんなに自分勝手な事だろう。

―――悪いな皆本。もう少しだけ僕の我侭に付き合ってくれ。

皆本の前では我侭になって甘えてしまう自分に、自嘲の笑みを零した。

 

0