黒猫02

 

黒猫は闇を駆け抜ける

帰ってきた主人はやけに荒れていた。
部屋に入ってくるなり襟から抜いたネクタイを乱暴に床へ投げつける。
着ているジャケットはいつも丁寧にハンガーに掛けられる筈なのに、吾輩が占拠していたベッドへ放り投げてきた。

にゃっ!

何をするのだ。突然視界が暗闇に覆われて、驚いて声が出てしまったではないか!
抗議の声を出しても猫の言葉では通じる事もなく、仕方無く重たい服から漸く抜け出せば、その場で立ったまま片手で己の顔を覆っている主人が居た。
小刻みに震えているその肩は泣いているのかと思わせたが、瞳はギロリと見開かれて床の一点を見つめていた。

「…裏切りじゃない。私は裏切られたんじゃない」

ブツブツと言い聞かせる様に呟いている主人。初めて見た彼の怖い顔に吾輩の身体は凍り付く。
一体外で何があったのだ。
到底、人間では無い吾輩にとって想像する事は出来ないが、異変位は気付く事が出来る。
くん、と鼻を鳴らせばジャケットから懐かしい匂いがした。これはコウイチの匂いだ。
彼と会っていたのか?主人にとって嬉しい事じゃないのか?あの懐かしい日を思い出して話が出来たんじゃないのか?
だが彼の様相からは、先ず手放しで楽しい再会で無かった事が見て取れる。

そろりとベッドから下り、彼の足下へ行った所で吾輩の存在など視界には入っていない様子。

みゃあ。

久々に出してみた猫なで声。猫が猫なで声というのも可笑しな話だが何せ甘えた、そんな声で鳴いてみる。
するとビクリと体を揺らした主人がそっと視線を落としてきた。
だが未だ瞳の奥に哀しみを纏っているのには変わりが無い。

「クロ…」

名前を呼んで吾輩を抱き上げる。
逞しい腕に包まれて胸辺りに顔を擦りつければシャツからもコウイチの匂いがした。
懐かしい。彼は元気だったのだろうか。

「皆本の匂いがするか?」

くんくんと鼻を鳴らし機嫌良く喉を鳴らした吾輩に苦笑いを浮かべてきた。
吾輩を拾ってくれた恩人なのだ。忘れる筈が無い。
主人を慕って遊びに来ていたあの少年は、随分と成長していたのだろう?
どんな大人になっていたのか吾輩に教えて欲しいのだが、一向に主人は苦笑う表情を解かないで居た。

にゃあ。

催促しても頭を撫でるだけ。そんな物を欲しがって鳴いているのではないっ!
首をぷるぷると振って腕の中から逃れると主人が落としたネクタイを口で拾い、ドアへ駆けだした。

「おいっ! こらっ!! クロッ!!」

人が多い室内を通り抜けて、開いている窓を見つけるとしなやかにその縁へ飛び乗った。
後ろから焦った顔を浮かべた主人が追いかけているのを確かめると、縁を蹴り、勢いよく外へ出る。

「クロッ!! 待てっ!」

思い描いていたよりは高かった窓から飛び降りた吾輩は僅かに体勢は崩したものの、久々に飛び出した外界の、道路を力強く蹴って月の隠れた闇夜を駆け抜ける。
案の定、主人は闇色の翼を広げて吾輩を追いかけてきているが、猫の抜け道を舐めるなよ?

捕まりそうになれば足を突っ張り勢いを殺して直角に曲がる。または引き返し、吾輩は憶えている道を捜し、主人の手から逃れながら、あの場所を目指した。

 

幾度目かの追跡の手を逃れ、入り込んだ垣根の奥に懐かしい公園があった。
そして、彼は居た。

にゃあっ!!

鳴いた瞬間にネクタイは口から離れたが、その分身軽になった吾輩は彼の元へ駈け寄る速度が速まった。

「クロ!?」

声に反応した青年が振り返る。と同時にその腕に飛び込んだ。
懐かしい声。懐かしい匂い。だが頼りなさそうな笑顔をしていた彼は、立派な青年に成長し随分としっかりした顔つきになっていた。
感極まった吾輩が彼の顔を舐めていると、ジャリと地面を踏みしめる音が聞こえて来た。

「…アンタ」

今まで吾輩との再会を喜んでいたコウイチの顔つきが厳しくなる。睨み付けている先に居るのは主人である、マギ。
彼の顔も部屋に帰ってきた時と同様険しく眉を顰めている。

 

緊迫した空気が流れている。
二人共睨み合ったままで口を結んでいた。

 

何があったかは知らないが、あれだけ仲の良かった二人が睨み合っているなんて――やはり人間は厄介だ。

 

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