黒猫02

 

黒猫は闇を駆け抜ける 03

顎を指で撫でてやれば、クロは機嫌よくごろごろと喉を鳴らす。

「悪いが、お前は置いていくぞ?」

クロに聞こえるだけの小さな声で言った真木は、膝の上でまどろんでいた彼を床に下ろし静かに立ち上がった。
時計に目を向ければもう夕方で、そろそろ皆本の仕事が終わる時間だ。
最近は寄り道がてらにあの公園に寄っている事をチルドレンを監視している連中からやってくる報告で知っていた。
本当ならあの日約束した翌日に会いに行くつもりだったが、気まぐれな兵部の命令によって先日まで海外に行っていた。

帰って来て報告を聞いた時、皆本が待っているとは思わず驚いたが、長い時を経ても彼の実直なその性格が変わらない事に嬉しく思いつつ、期待してはいけない、と自分の心を戒める。

窓に近づき月夜が昇った空に向かい広げた黒い翼。
にゃあ、と足元で鳴いたクロに笑顔を落とせば、音を立てないよう静かに窓の端を蹴り、夜空へ溶け込んだ。

今日で何日目になるのか。
いつも待っている時間は僅か一時間にも満たないが、それでも真木がやってくる気配は無く、諦めた顔をしながら帰路につく。そんな日々を過ごして、もう何日目なのか、数えるのさえ億劫だった。

彼が嘘を言うなんて思えない。
エスパーだという事を隠す理由がわからないわけでもないし、ましてやパンドラの幹部だという事実など普通人の皆本に明かして何の得もないだろう。整頓して物事を考えれば真木の背信じゃない事ぐらい、皆本にも理解できる。
それに彼は『楽しかった』と―――皆本と居た時間を壊したく無かったと言ってくれた。
まるで告白のような台詞に呆けてしまったが、胸の内で繰り返せば暖かい気持ちになれる。

だが、あまりにも待たされ過ぎだ。
忙しいのだろう位は想像がつくのだが、言ったからには実行に移してもらわないと、こちらが馬鹿みたいでイライラする。
第一、こんな逢瀬の約束こそが可笑しな話なのだ。
バベルの人間で、しかも普通人の自分と、パンドラの幹部でエスパーの真木。
接点など無いし、寧ろ持ってはいけないと分かっていながらも、こんな未来が来るなど知らずに、何の確執も無いままお互い一人の人間として出会っただけで、誰からも責められる所以は無い。

ポケットから何の装飾も付けていない鍵を取り出す。真木に言われて作った合鍵だった。
掌に乗せて見つめれば知らずと溜息が漏れる。

「司郎さん、って呼べるままが良かったな…」

変わってしまった関係性を寂しく思い、困った様な、そんな表情で皆本は掌の上にある鍵を見た。
愛執を持って呼ぶ事はもう彼の前では出来ない。全ては過ぎてしまった過去の話だ。今、振り返っても仕方が無い。

巡った思考を振り切る様に、グッと鍵を握り締めると座っていたベンチから腰を上げた。
今日も彼は来ないのだろう。もしかするとこの先もずっと来ないかもしれない。
そんな不安が押し寄せてくると、帰ろうとした足は動かずその場に立ち尽くす。

「帰るのか?」

ふいに掛けられた声に振り向けば遅い待ち人が立っていた。

「真木っ」

人を待たせておきながら悠然とした態度で現れた彼に、怒りを覚えた皆本が鋭い眼光を向ける。
見下ろしてくる視線とぶつかり、彼が敵意を抱いていない事がわかっても、張った緊張感は解かないでいた。

「待たせて悪かった」

なのにスッと足を前に出し近づこうとしてくる彼に、皆本が握り締めた拳を勢いよく上げる。そして真木に向けて掌の中の鍵を投げつけた。
乱暴に返された鍵を右手で受ければ、口角だけを上げて彼は笑った。

「人の物は丁寧に返せと教わらなかったか?」
「うるさいなっ!アンタなんかに礼儀を説かれる義理はないっ!」
「それもそうだな」

約束を反古にするように待たせてしまったのだから、礼儀に欠けているのは真木の方だ。
なのにふふっと軽く笑みを浮かべながら皆本へ近づく。

「待たせて、悪かった」

もう一度謝罪の言葉を述べた真木を睨みつける態度は変わらないが、惑いの色がその瞳に差す。
一重に恨みつらみの思いだけが心を支配していない事に気が付いた皆本は、目を逸らすように俯いた。

「謝られたって許さない」

ぽつりと彼がそう言うと、真木は諦めた様な溜息を吐いた。
謝罪をしても許さないという彼は拗ねた子供の様に見えて、あやす為の手を伸ばすがもう彼が本当の子供では無い事に遠慮した。

「じゃあどうすればお前の機嫌が直るんだ?」
「直すも直さないも無いだろ?もう僕らは馴れ合える関係じゃないんだし」

顔も上げず、怒鳴るわけでも喚き散らすでもなく、ただ淡々とそう綴った彼に真木は苦く笑う。

「―――正論だ」

言った真木は俯いている彼の顎に指を沿えると、ぐいっと上向かせた。
嫌そうに眉間に皺を寄せ、その手を払おうとした彼の腕を炭素繊維で拘束してしまうと、真木はにやりと口元を歪める。

「は、離せよっ!」

焦った声で叫び、抵抗しても解放を許してくれる雰囲気ではなく、油断して隙をみせた事に後悔をした。
合った視線から逃れようと首を振っても掴んでいる真木の手が邪魔で思うように逃げられない。

「あの時はお前の為と思って見送ったが、もう遠慮しなくても良いのか」
「な‥に言って…」

真っ直ぐ見つめてくる真木の瞳に、戸惑いを覚えた皆本の声が揺れる。
宣言通り遠慮の欠片も無く距離を詰めるその瞳に釘付けになり、口唇に掠めるように触れたそれに皆本は目を見開いた。

「…っ」

真木の重ねてきた口唇が離れていった後、何が起こったのか理解出来ないまま皆本は口を開く。
だが罵倒しようとして開いた筈なのに、言葉が出ない。

「お前がどう思っていようが関係ない。俺はあの頃から変わらずお前が好きだ」

皆本が自分を慕い、再会を望んでくれていた事が嬉しかった。その思いが自分と同じ類の思いであれば尚嬉しいが、当時の関係が崩れた以上その可能性はゼロに等しい程に低い。
たが、だからこそだ、と真木は笑った。
これ以上最悪な関係は無いのだからこそ自分の気持ちに正直になれる。
告白して嫌われようが、気持ち悪がられようが、もう既にそんな感情を抱いているだろう皆本にぶつけた所で状況は変わらない。

だったら自分の思いを伝えてしまった方が、自己満足ではあっても幾分気が楽だ。
今更伝えるのは卑怯かもしれないが、怯えを抱いていた過去ではそんな勇気が無かったのだから仕方無い。

目の前で呆気にとられている彼の拘束を解き、真木は苦笑いを浮かべた。

「俺はお前のことをずっとそんな邪な目で見ていたんだ。離れていってくれて良かった」

返答に惑っているだろう皆本に精一杯の皮肉めいた一言をくれてやる。
すると皆本は一瞬顔を歪めたがしっかりとした瞳をこちらに向けてきた。

「僕は司郎さんとずっと居たかったよ。大好きだったからね」

『大好きだった』と言った皆本の言葉は少なからず真木の心に突き刺さる。過去形にしたそれはもう過去の感情でしかないのだ。

「でもアンタは違う。僕の知っている司郎さんじゃない。パンドラ幹部の真木司郎だ」
「お前が知らなかっただけだろう?俺は今も昔も同じだ」
「違うんだよっ!」

諭してくる真木の優しい声を打ち消すように皆本は叫んだ。
しかしそんな彼に真木は慈しむ優しい思いだけを抱き、微笑む。

「同じだよ、皆本」

穏やかに言った彼を見て、皆本は悔しそうにギリッと奥歯を噛みしめた。
向けられている視線は昔と相変わらず暖かい。
そう感じれば感じるほど、皆本の中で感情が渦巻く。

大好きだった彼。
ずっと慕い思い続けていた彼が目の前にいるのに、当時の気持ちで接する事はできない。

エスパーであったとしても良かった。そんな物は障害にも何もならない。
だがパンドラであるという事実は皆本の思う気持ちを阻むのに十分な事実だ。
せめて彼が変わってしまったと思えれば整理を付けられるのに、彼はそうさせてくれないでいる。

「違う、って何で完全に思わせてくれないんだよ」
「簡単にお前を諦められないからな」

静かに問えば、包み隠さず素直に自分の感情を露わにする真木に、緊張を緩め溜息を吐いた皆本が視線を逸らした。

「やっぱりアンタは変わったよ」

困惑に似た笑顔を浮かべて再び真木に視線を向ける。

「昔はそんな貪欲に僕を求めてくれなかったじゃないか」
「未成年に手を出すほど飢えてなかったからな」
「よく言うなぁ」

どこまでも自分の気持ちに正直に答える真木に皆本はくすっと笑った。また世間体を繕う事にバカらしくなったのもある。
だが真木にはその笑顔が一歩前進に思えた。

いつかまた自然に笑い合える、そんな時間を手に入れられるような期待が生まれる。
他人に、ましてや普通人に抱くには初めての感情過ぎて、狼狽えはしたものの今の彼なら受入れられた。

 

 

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