黒猫03-シナプス-

 

シナプス回路の混乱

軒先を借りた皆本は曇天の空を見上げていた。
冷たく降る雨は、止む気配が無い。

いつもカバンに忍ばせておいた折りたたみ傘は、賢木に貸したまま返ってきていなかった。
どうせなら早くに取り立てておけば良かったと後悔しても遅い。
チルドレンに連絡して迎えに来て貰うか、と携帯を取り出すがこの場所を説明するのに躊躇する。

そこは昔、自分が居た施設の近くであり、真木と会った最初の場所だった。
皆本にとって大切な思い出の一つのこの場所は、出来る事なら彼女たちには教えたくない。
取り出した携帯はポケットに仕舞ってもう一度目の前の道に視線を向けた。
人通りは幾らかあるものの、タクシーなんて通る気配は一向に無い。

「どうしようかなぁ…」

溜息を吐いて腕時計に視線を落とせば、スッと現れた黒い影に気が付いた。

「…何をしている?」
「あ…」

掛けられた声に顔を上げれば、あの日を思い出した。
違うのは既にお互いを知っている事と、クロが居ない事。
後は少し成長した皆本と、歳を取った真木である事だった。

「傘はどうした?天気予報は見てなかったのか?」

朝のニュースで降水確率が90%を越えている事を知っていた。だが慌てていた皆本は玄関先に傘を置き去りにしてきてしまったのだ。
気が付いたのはバベルに着いた頃で、置き傘の一つくらいあるだろうという考えは誰しもがしたのだろう。皆本が帰る頃にはすっかり残ってはいなかった。
そんな説明をすれば、真木に笑われるのは必至だと予測した皆本は黙りこむ。

「ほら」

スッと差し出される傘に驚き彼の顔を見上げる。

「いつまでもここに居ては凍えるだろう?」
「でもアンタは…?」
「すぐそこに借りているマンションがある。お前はこれを差して帰れ」

言った真木が押し付ける様に皆本の手に傘を握らせた。

「い、いや!悪いよ、そんなの」

無理矢理に握らせられた傘を押し返せば、皆本の行動に難解な顔をして見せる。

「じゃあいつまでもそこに居るつもりか?」
「タクシーが来たら帰るよ」
「滅多に車の通る道でも無い」

もう一度返された傘を彼の手に戻しながら、触れた手の冷たさに真木は溜息を吐いた。

「…だったら家に来い」
「は?」

唐突な申し出に皆本が驚いていると、取られた手を引き寄せられ傘に入る形になり肩を抱かれる。
ドキリと鳴った胸に考える脳を止められた気がして、そのまま歩き出す真木と並んで歩き出す。

「あ…のっ!肩、肩っ!!」
「濡れるからな」

真木に他意は無いのだろう。
その事は大いにわかる。
しかし、この状況は恥ずかしい事この上無い。
すれ違う人の視線を感じる度に肩を抱く腕を外そうと思ったが、それを許さない程真木の足は速い。

ほんの二、三分歩いた距離にあるマンションのエントランスに入り、肩に乗っていた感覚が無くなった。
少し寂しいと思った自分を否定して、無言のままエレベーターのボタンを押す真木の後を着いて行く。

すぐにエレベーターはやって来て、目的の階で降りた真木は振り返りもせずに自分の部屋を目指す。

「僕が入って良いのか?」
「それを言うなら、お前は良かったのか?」

ガチャとドアを開く真木の背中に聞けば、横顔だけで振り向いた真木がくすりと笑う。
何の事かわからず尋ねようとした皆本の腕が取られ、またも強引に引き摺りこまれる。

「告白した男の家に着いてくるなんて」
「……っ!」

バタン、とドアが閉まった。
同時に玄関の壁に抑えつけられ、彼の顔が近付いてくる。

「ア、アンタが強引に連れて…っ」
「マンションの下で逃げられただろ?馬鹿正直だな、お前は」

静かに近付く唇に覚悟して、目を瞑る。なのにやってこない感覚に皆本はそろりと目を開けた。
変わらず近くに真木の顔はあった。
優しく微笑みを浮かべて。
だが、それ以上は近付かず、頭をぐしゃりと掴んだ彼は靴を脱ぎ中へ入る。

「何もしないさ。あのまま居れば風邪を引くと思っただけだ。すぐに紅茶…いや、珈琲の方が良いか?」
「え…あ、ああ…」

玄関先に一人残された皆本の顔が赤くなる。
自分は何を期待しているのだと自問し、浮かんだ想像を払拭するように頭を大きく横に振って靴を脱いだ。

部屋の奥は相変わらずシンプルで、綺麗に整頓されている。
ここに住んでいないのは見て取れた。きっとこの場所は目眩ましの一つか、真木が偶にやってくる自室なのだろう。
入ってすぐにあるキッチンに居る真木を見つめて、手伝うべきか悩み皆本は立ち尽くす。

「座っていて良いぞ?すぐに沸く」
「ありがとう」

手放しで喜べないくすぐったさを抱き、皆本は部屋の中心にあるテーブルの脇に腰を下ろした。

数年前ならワクワクしていたのに、今では寛ぐ事もなく正座で彼を待つ。
時の流れがそうさせたのか、二人の関係性がそうさせるのか。

しかし真木は変わらない。
昔慕った、優しい兄の様な存在のまま変わらないでいる。

「まずはその冷えた身体を暖めろ」

持ってきたマグカップを手に渡されて、皆本は素直に口を付けた。
その様子を真木はネクタイを緩めながらジッと見る。

無言のまま過ぎる時間。
互いに何を思っていたのか、どちらも口を開かない。

静かな部屋に秒針だけが響く。

 

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